そろそろ 潮時かな

このブログ 青空の彼へ

ということで 途中脱線しながら

他にも やりたいこと

楽しいことが あるというのに

ひたすらに 書いてきました

 

長い間

彼と 離れていることで

ひとや ものの大切さ

愛情 を知ることができた と

思います

彼にも みなさまにも感謝

ありがとうございます

 

正直 書きながら

わたし いったい

なにをやってるんだろう と

ばからしくなるときも 

面倒くさくて 嫌になるときも

ありました

 

途中

ちょっとばかり

ドクターや同じ病気のかた

誰かの お役にたてないかな と

書いてみたり

 

スピリチュアルを知り

ライトワーカーになりたくて

心と体の記事を

書いてみたり と

 

彼への思いは

変わらずですが

時代の変化に影響されながら

わたしも

変化していきました

 

メモ帳がわりにしていた

記事もありました

 

なにより

いつか彼が

連絡してくださると 信じて

 

電話番号が変わったので

連絡先を

増やしておきたい という

思いが ありました

 

どこからでも

わたしが わかるように

しておきたかった わけです

 

ウェルカム~解放 としていたら

彼が連絡してくださる

というわけでは

ないんですけれどね (*´σー`)エヘヘ

 

ココで

ばかなことを言って

騒いでいた日々も いい思い出です

あのころも 楽しかったな

 

まだ いつまでに

とは考えていないのですが

そろそろ 

ココを 閉めるときがきたと

感じています

 

ココは

わたしには 気晴らし

彼には苦痛かも (想像ですが)

と考えると

必要を 感じられなくなりました

 

それに

わたしの日常を

長々と 一方的

赤裸々に 

世間にさらしまくっていても

仕方がなく

意味が わかりません

 

かなり前に

T☆itterを消去

Y☆uTubeやルームもやめています

ショップもお休み中で

 

書いてきたように

現実の

大切なものを 優先してきました

 

というわけで

そろそろ 終了してしまうかも

しれません

 

だらだら

続けていたら すみません(;^ω^)

 

もともと

意味がない

必要ないと感じるものを

執着までして

続けるタイプではなかったのですが

 

彼への思いから

こんなに長く

さまざまな チャレンジを

続けました

彼 みなさま

本当に

ありがとうございました

 

どんなことも

いつかは

終わりがくるもの

次のステージが 用意されます

 

彼について 家族について

やれることは

やってきたと思うので

 

もう

わたしが どうしているか

何を考えているか

わざわざ彼に ココに書いて

伝えなくても いいかな

そろそろ潮時かな と考えています

 

彼への思いは 今も

これからも 変わりません

 

過去記事は

そのままにしておきますので

気軽にお入りください

(コメントに気づいたら

ご返事しますね)

 

長い間

Popをかわいがっていただき

ありがとうございました

 

相談に のっていただいたこと

励ましのお言葉

お叱りのお言葉

すべてに 感謝しています

2023年11月27日 (月)

患者さんと ドクター

ドクターと結婚したら

お金持ちに なれる

専業主婦で 暮らせる と

誤解しているひとは 別として

 

いけないことと

認識しているかたも

多いのかもしれないけれど

 

体も心も

弱っている患者さんが

ドクターに 優しくされたら

ドクターを 好きになる

というのは 

年齢 性別関係なく 当たり前のこと

恥ずかしがらなくてもよいこと と

言われている

 

お互いに というのか

タイプだったら このひと いいな~と

思うものでしょうし

ドクターからしても

魅力的な患者さんは いるでしょう

 

でも

ドクターには 立場があり

ドクターの家族 仲間がいるので

すべてを捨てるわけには

いかない

 

科によるのかも しれないけれど

患者さんと 恋愛に発展すると

治療ができなくなる

患者さんを 傷つけるので

患者さんを助けることが

できなくなる

という考えも あるみたい

 

ドクターは

患者さんの好意に

気づきやすいので

そんなときは

それ以上 患者さんの気持ちが

盛り上がらないように

誤解されないよう 工夫したり

言葉に気をつけたり

しているのかな と想像する

 

患者さんは

幼い子供のように

心が弱っていて

ドクターに 助けてもらいたいと

思っているので

 

そこに手をだす というのは

幼い子供に手をだす ことになる

という説明を メディアで観て

なるほどと 思った

 

患者さんの好きが 

恋愛の好きに変化して

希望どおり 恋愛が発展すると

 

ドクターも人間なんだ

という生々しさ?に

苦しむことになる という

どうせ

という気持ちになるみたい

 

また患者さんが

ドクターとの恋愛が

ダメだと感じると

一番 迷惑な患者になりたいと

行動することも あるみたい

 

狭い空間で

いろいろなことが

起こっているのね と思った

 

わたしは

内科や心療内科などなど

さまざまなドクターに

お世話になって きたけれど

 

優しくされたから

好きになった

という経験がない

 

わたしが

ひねくれているのか

カウンセラーのかたにも

優しくされて

好意を持ったことが ない

 

わたしは

先生という存在が

もともと苦手で

どこか 信用できないところが

あって 

 

好意を持ち 回復するように

カウンセリングされた

としても

転移を促されたとしても

残念ながら

しれっとしてしまう

 

カウンセリングの

勉強は していないけれど

カウンセラーのひとが

考えていることが

透けて見える

 

日本は

傷ついたひとのために

免許なく活動されているかたがた

の方が

傷ついたひとは

救われるのではないか と

個人的に 感じている

 

お互いに 人間

なのだから

好きになることもあるでしょう

 

いいな と思っても

通院が終われば なんだったのだろうと

目が覚めることも

あるでしょう

 

ということを考えていたら

わたしの心は

たまに

危険な状態になっては

いるけれど

 

自分や家族の問題は

いろいろな意見を 聞きながら

自分なりに 解決して

解決できないものは

解決できないと知ってきて

 

心療内科に通うほどに

弱ってはいない のかもしれないぞっ?

と思った

 

病気が原因で

幼い子供のような弱々しさと

大人の感情を

アンバランスにもっている

患者さん

という状態では ないように思える

 

だから今まで

タイプだから好きになった

ということは あるけれど ウフフ

 

優しくされたから好きになった

ということがなかった

のかもしれない

 

いや

わたしが ただの

ひねくれもの なのかも

しれないけれど

 

優しい男性というのも

お仕事では ということもある

優しいだけが

いいわけでもない

 

にしても

ドクター 患者さんを 好きになる を

理屈っぽく語っている ドクターを

メディアで観ていると

 

いやいや考えすぎでは?と

思った

 

好きになるを

肯定しているようで

否定しておきたいのか

倫理的に悩んで

受け入れられないのか

よくわからなかった

 

好きって

分析しても考えても わからないこと

理屈じゃない と思うので

観ていて なんだか疲れてきた

 

もっと 単純でいい

ひとを 好きになっていいと 思う

我慢する必要もなく

自分の気持ちを

受け入れたら いいのではないかな

 

それに

せっかく恋をしたのだから

理屈っぽく

暗い気持ちで 考えすぎず

 

お互いの

家族や大切に思うひとたちを

守れる

恋の 最善の形を相談して

つくっていけば よいわけで

 

お互いに

輝いていられたらいいのにね と

思った

 

これって 理想すぎるのかな…

2023年10月15日 (日)

素直

疲れているときは 休む

やらなくてはいけないことは

工夫して

やりたくないことは やらない

できないことは 上手に断る

 

心と体に 素直でいる

ということは

こういうこと なのかなと思う

 

病気だから できないのだわ

まーいいか

しょーがないよね

という気持ちも 欲しいし

 

嫌なことでも

できることは やりたいけれど

 

情熱はいいとして

やりすぎていないか

こだわりすぎていないか

ということにも

気をつけていきたい

 

ほどほどって案外

難しいのだけれど

完璧さ にとらわれると

抜け出せなくなるので

バランスを大事にしたい

 

頑張りすぎると 嫌になるから

60くらいの心地よさで

よしとしよう

2023年10月11日 (水)

質問がなくなるとき

誰かに聞く必要などなく

答えは自分のなかにある

という

 

そもそも

納得できる答えなど

存在しない

ともいわれている

 

納得できる答えが

見つかったように

感じることも ある

 

病気について

シンプルに病状だけを

話せばいいのに

 

過剰に反応して

医師に質問しすぎる

すがったり

病気の犯人さがしをする

原因ばかりに気をとられ

理解できなければ

さらに質問して

納得いくまで 対処を聞く

なんとかしなければと

なんとかしなくてもいいのに

思いすぎる

 

という作業は

 

パッと見

家族の病気や

自分の病気に

一生懸命なようで

 

不安が強いだけ

なのかもしれないな と

思うようになった

 

自分のやるべきこと

自分が

やってはいけないこと

どちらでもないこと が

はっきりとすれば

答えのない 質問攻めは

必要なくなる

 

理解できないと解決できない と

思いすぎているうちは

前に進んでいない

解決できないこともある

 

ひとりで立てる

ひとりでも 楽しく生きていける

というのが 自立した女性 だと

思うので

 

愛情がなんだか

わからないけれど欲しい

大切にして欲しいばかりに

気をとられず

 

愛されている実感など

なくても

自分で自分を愛せていたら

それはそれで よくて

 

自分が誰かを

力一杯愛していたら

それは 素敵なこと

 

愛されるより

愛している方が幸せ

というからね

 

物事を

ない あるで

極端に判断するのも

よくないかな  

 

ない のに

自分だけ努力し続けるのも

ないと

気づいたら やめたい

 

自分を

守るためにでてきた

自分が感じる感情 を

大切に

 

不安なら 不安で

不安な自分を 許してあげたい

許せないなら 許せないで

許せない自分を 許してあげたい

 

正直に

自分らしくいられることが

できれば

何も 恐れることはないと思う

2023年9月24日 (日)

傷ついたひと 聞き手

聞き手の関わりかたについて

今まで

腹立たしさや

違和感を感じながらも

それが何なのか わからないでいた

やっと

文章にできたので

お暇なかただけ 読んでください**

 

聞き手の

すべてを受け入れる 認める

という 全面受容は

 

相手の

存在そのものを受け止める

ということで

 

条件がいらない

無条件である という 心地よさがある

 

受容には そもそも

評価や否定 意見が

存在しないのではないかな

というのが

わたしの経験から やっと行き着いた答え

 

許す 許せないという 価値観や

良い 悪いという 基準が

初めからない

というのが受容ではないのかな

 

受容する聞き手は

受容しない聞き手と違って

 

相手が感じていること

そのままを

当たり前のように受け止めて

関わっている

 

ここで

頑張って という言葉から

書いてみようと思う

 

元気なひとにとって

頑張っては

ありがとう 頑張るね

なのだけれど

 

傷ついたひと

つまり

今のままではいけない

愛されていない

価値がない

☆にたいと 思っているひとにとって

頑張っては

 

頑張っていないという

否定と

もっと頑張れよ という

意見になる

 

傷ついたひとは

頑張っているのに

これ以上

何を頑張れと言うのかと

追いつめられる

 

傷ついたひとに

頑張れを言ってはいけない

というのは

こういう理由

 

頑張っているね

これ以上頑張らなくていいよ

という言葉に

救われるひともいる

 

コメントの言葉を

お借りして

申し訳ないのだけれど

 

みっともなくていい

という言葉をかけるとする

それは

みっともないひとだ と

相手を評価して

否定していることになる

 

自分を

大切にしないといけない

という言葉をかけるとする

それは

自分を大切にしていない

大切にしなさい

という否定と意見を

言っていることになる

 

受容には

評価や否定 意見が存在しない

なので これは受容にならない

 

もう少し

わかりやすく?説明すると

傷ついたひとが

自分自身を責めている

 

聞き手が

自分を責めるのはよくないよ と

優しさから 言葉をかける

正しいこと もっともなことを

口にしたつもり

 

でもそれは

自分を責めている傷ついたひとを

否定していることになる

(たまたま目にした

心理学者が 言っていた)

 

わかっていることを

わざわざ聞き手が言う

というのも

傷つくか うざいか ってもので

 

苦しいね

つらかったね と

傷ついたひとの気持ちを汲めば

 

肯定が

的外れでなければ

傷ついたひとは多少

気持ちが軽くなると思う

 

これが

聞き手が受け入れた

ということではないのかな

 

傷ついたひとの

力になりたいなら

 

傷ついて 話しているひとを

「否定しない」

「良い 悪いなどの 評価をしない」

「自分の意見を言わない」

「アドバイスをしない」

という関わりかたが

大事になってくる といわれている

 

わたしが

できているかというと

できていないと思う

なぬ? (≡人≡;)スミマセン

 

これらすべて

聞き手が

うわべだけでなく

本心からできたとすれば

 

傷ついたひとは

気持ちを 受け止められた

わかってもらえたと

感じやすい

 

話しやすいな

もっと話そうかなと

思うようにもなるみたい

 

わたしは

全面受容を 次男で

経験しているので

(わたしには 厳しかったけれどね 汗)

 

受け入れるとはを

なんとなく 感覚で

わかってきたのだけれど

 

あまりに自然に

全面受容されていたので

最初は

不気味さを感じたり

警戒したり していた

 

実は受容

そんなに

難しいことではなくて

身近に見本がある

 

ワンちゃんねこちゃん

飼っているペットは

飼い主に 何があろうと

飼い主が たとえ悪であろうと

いつもと変わらず

側にいてくれる

もちろん 評価 否定 意見は

しない

 

だから飼い主は

無条件の愛に癒され

安心できる

 

なので

聞き手は ペットのような

イメージ

 

海や山 大自然のなかでも

心地よさを感じる

これもまた

ありのまま 自然に

受け入れられているからだと

思う

 

心の広さを

自然に例えているのは

そういうこと

なのかもしれないね

 

というわけで

傷ついたひとを

評価したり

励ましのつもりの否定

意見を言うのは

とても残酷なこと

 

ときに 傷ついたひとは

自分を守ろうとして

さまざまな行動をする

 

例えば 

部屋に引きこもる

話さないようになる

などなど

 

それを

自分を守ろうとしているのだな

と理解しないで

叱咤激励して

自分を守れなくしてしまうのは

怖いこと

 

一時的に

良くなったようにみえて 

本人ではなく

まわりが楽になっただけで

何も解決していない

ということもある

近道は 結果遠回りになる

 

受容する聞き手は

怒り 憎しみ 苦しみ

傷ついたひとの マイナスの感情を

そのまま 肯定して受け止める

 

そうすると 

傷ついたひとは

マイナスの感情を 感じている自分

悩んでいる自分は

 

ダメな人間ではなく

それで いいんだ

今の自分のままで いいんだと

感じられる

 

自分は

自分のままでいいんだと

自己肯定感が 多少高くなる

(自分で自分を肯定して

自己解決しているときも

あるよね)

 

評価 否定

意見されないことで

ありのままの自分を

聞き手に 表現しやすくなる

というもの

 

逆に

聞き手が励ましのつもりで

否定する

よかれと思い 意見を言う

正しい もっともなことを

聞き手の自己満足でぶつける

不安をぶつける

しまいに 罰を与えたり

条件をつけたりする というのは

 

溺れている我が子が

つかもうとした藁を 

知らないで 罰として

とりあげるようなもの

 

とはいえ

傷ついたひとを

目の前にしたとき

大切なひとなら なおさら

なんとかしてあげたいと思う

解決策があれば 伝えたい

あなたにも 責任があると

指摘したくもなる

 

不安なひとに

そうなるよね  不安だよね と

共感すると

 

もっと

不安になるのではないか

という

聞き手の不安もある

 

救いたいのは 誰なのかな

相手のなかにいる 不安な自分

なのか

傷ついている相手なのか

 

弱いひとと評価して

うえから目線になっていないか

依存していないかな

 

相手にかけたい言葉は

本当に これなのかな

ただの

自己満足ではないのかな

ということを

 

立ち止まり お茶でものんで

深呼吸して考えてみると

大切なものが みえてくるかも

 

わたしは

世界一はなしやすくて

あんな 優しいひとに

会ったことがないと

まわりから 言われているひと

との 出会いがあったので

 

素敵だな

あんなひとに なれたらいいなと

観察しているうちに

人生観が変わっていった


こんな発見を

ごちゃごちゃ書いている わたしは

完璧ではなく

まぁ いい加減で 無神経

未熟なひとで

学びと気づき 反省の毎日


次男のサポートをしていて

最初は

いい母親でいたい と

変に 力が入っていた


いつも明るく

いなければ いけない

何かしなければ

わたしに 何かプラスしなければ と

落ち着かなかった


わたしの

育った環境も

関係あると思うのだけれど


こうじゃなくてはいけないと

思ってきた


こうじゃなくても いいのにね


ところが ただ

わたしが 何もせず

座っているだけで

存在を

みなさんが認めてくれている

ということを

次男のサポート中 肌で感じて


ああ ただ

そこにいるだけで いいんだ

わたしは わたしでいいんだ

ということに 気づいた


ボランティア活動で

居場所づくり

命を守る活動をされている かたがた

信頼できるドクター

近所のひと

動画のなかのひと などなど


肩書き 年齢関係なく

素敵なかたから

学ぶチャンスは いくらでもあるので


危険なことは

許してはいけないけれど

優しい気持ちで

話を聞いていられたら

いい時間が過ごせて


傷ついたひとは

救われるのではないかな


だから わたしは

不器用ながら


それで いいんだよ

あなたは 今のままで 十分なんだよ


あなたは あなたのままで

十分 愛されているんだよ


という思いを

伝えていきたい


長くなりましたが

最後まで 読んでくださり

ありがとうございました**

2023年9月23日 (土)

生きていたら 陰陽

生きていたら

いろいろなことが起こる

 

あたたかな心 のときもあれば

怒りや憎しみの心 のときもある

 

それは それでいい

それでこそひとで

それでこそ人生といえる

陰陽があるのが 世の常

 

いつも

ポジティブでいる必要や

前向きでいる必要はない

 

ネガティブな感情も

後ろ向きな感情も 

 

あなた自身を

守ろうとしている感情なのだから

 

悪いものとして とらえず

大切にしていけたら いいな

2023年9月18日 (月)

医師の過酷さ 命 あなたと誰かが

最近ニュース記事で

ブラックが原因の若者の自☆ 医師の自☆

母親の気持ち などを読んで

考えさせられたので 書きます

苦手なかたは

スルーしてください 長いです**

 

次男が幼いころ

喘息で入院したとき

先生のおうちは病院?と

言うくらいに

ドクターは

自宅に帰れていなかった

 

ドクターの

学生時代からの過酷さ

過酷さから自☆するドクターが

ドクターの身近にいる

という事実に

胸が痛くなった

 

わたしは

以前 知らなかったのだけれど

医師の妻になる

ということは ステータス

うらやましがられること

らしい

 

ほとんど自宅に帰れない

責任ある

体も 精神もきつい 仕事

生活も

バイトを頑張らないと

厳しい

 

そんな医師の夫を

支えていく

幸せにする覚悟は

妻になりたいひとにあるの?

なんて おまえが言うんかい

なんだけれど アハハ

生意気にも 思ってしまった

 

夏休みあけは

自☆する子供が 多いという

夏休みの宿題が

できていない が

きっかけに なるみたい

 

自☆した医師のかたの

論文が終わらない も

同じだと思う

 

夏休みの宿題がないという

学校もある

 

私たち世代は

根性論で 殴られて育った

就職すれば 暗黙の了解で

ブラックは当たり前という

とても原始的な世代

 

指導側になったとき

自分がされて

よかったわけではないのに

自分たちは

そのようにして 成長したからと

若者に負荷をかける

やられたことは

やってしまうもの みたい…

 

期待しているなら

期待していると

伝えればよいのに

罵倒して

這い上がる気持ちがあるか

試してみる

 

自分たちが

楽をしていないので

楽しく 楽にやる

ということが

許せない指導者や上司もいる

 

どうしてひとは

競ったり 憎んだり するのかな

そんなこと 全部

やめられたら いいのに

わたしは 楽しくに大賛成

これって

きれいごと なのかも…

 

そんななか

母親としては

正解はないと思うけれど

子供の命を守るために

 

選択肢はひとつではなく

いろいろあること

 

親の期待は

無言でも伝わるので

自☆するくらいなら

やっていることを やめたらいい 

ということを

日頃から話して

 

失敗ではなく

違うやりかたがある

ということ

逃げていい こと なんかも

丁寧に 伝えていきたい

 

無条件で

あなたを愛している

ということも

しっかり伝えて いきたい

 

話しているとき

気持ちと

話している言葉が

違っていたり

 

話している本人も

気づいていないような

奥深い気持ちが

追求しているうちに

見つかったりする

 

心が重いと

話すことも できない

 

本当の気持ちが

表現できるかどうかは

聞き手による

 

話すは放すという

 

傷ついたひとは

信頼できて

すべてを受け入れ

否定しないひとになら

自然に 少しずつ

話せるようになるもので

 

大人になると

親には

なかなか話せなくなるよね

 

でも

信頼できる誰かに

話したからといって

不快にさせられることも

ある

 

話してよかった

ばかりではない

余計に傷つく こともある

 

理解してもらえないなら

話すことをやめ

理解してもらえるひとに

話す

または 

しばらく休んでから

自分をみつめなおして

自分で道をひらく

自分の味方は自分

という方法もある

 

こうじゃなくてはいけない

なんてこと

実は 世の中には

ひとつもない

 

こうじゃなくても いい

 

相談を受ける側は

意見を言わない

それは つらかったねと

肯定するだけ でいいと

言われている

 

カウンセラーでも

意見を言わない

という鉄則は かなり

ストレスがたまるみたいで

 

ついつい よかれと思い

意見を言いたくなる

励ますつもりで 否定する

 

傷ついたひとのために

言っているのか

自分のために 言っているのか

わからなくなる

 

うえから目線

自己満足 も みえてきて

 

もっと

頑張らなくてはいけない

今のままでは いけないんだ

今の自分は 許されないんだ と

傷ついたひとを

追いつめる 結果になる

 

つらかったねと共感

そうなるよねと認める

ありのままを認める

いいねと いいところを ほめる

励ましの否定をしない

すべて受け入れる 肯定する

意見は言わないけれど

質問には答える

求められたことには 答える

 

こんなかんじがいいのかなと

わたしの経験から思う

 

若者世代は

このあたりが できているひとが

多いのかも

 

わたしは

次男のおかげで

自☆防止活動をしている

すべてを受け入れて

否定しないかたがたとの出会いが

あった

 

学びも多く

危険なこと以外

すべてを受け入れなければ

ひとを救うことは できない と

知った

 

次男にも

出会いにも感謝している

 

相談される側が

ありのままを 受け入れる 認める

というのは

すべてを受け入れる 認める

受容 ということで

なかなか難しいことだと思う

時間をかける勇気も必要

 

精神科医やカウンセラーでも

平気で それはダメだ

こうしないからだ と言う

否定的なひとや

あやしい いやらしげなひとも

いるので

 

安心できる相手や 居場所が

見つかるまで

(自分が 安心できる存在になれるまで)

親も 子も みなさんも

諦めないでほしい

 

子供のために

親が出ていくことを

恥ずかしいと思う

恥ずかしいと思われる

ということも

あるかもしれないけれど

 

そんなの 

蹴っ飛ばして

 

どんなことも

まわりのひとが

どう思うか ではなく

 

「一緒に生きていく

あなたと 誰かが

どう思うか 」が

一番 大切なので

 

傷ついたひとも

傷つけたひとも

夜が明けるみたいに

みんな 幸せになってさ

 

ごはんを

おいしいと思ったり

好きなものや 楽しいことを

見つけたりして

 

いつの間にか

笑うことが増えたね

なんて

ふたりで

笑える日がくることを

信じていて欲しい

2023年9月16日 (土)

心だけ 離しておく

距離をおきたいひとが

いても

なかなか

事情があって

離れられないことってある

 

そんなときは

心だけ 離しておく

という やりかたが

オススメ

 

負担になる言葉も

受け止めると 苦しいから

できれば 受け止めずに

流してしまおう

 

ちなみに わたしは

息子たちには どっぷりだけれど

旦那とは

心だけ 離している

 

言葉は 大切に

受け止めすぎるので

流せるように したい

 

息子たちのことは

かなりの大変さ が起きても

大変は大変だけれども

深い愛情があるので

ストレスには ならない

 

長男の結婚は

普通は こんな悩み

ないと思うのだけれど

旦那からの

いつもの 伝達いじめが

不安なだけで

他に 不安はない

 

いきなり

結婚を聞いたときは

驚いて

愛情からの 寂しさを

感じたけれど

 

すぐに受け入れて

幸せになって欲しいと

思っている

 

あとは

ふたりで決めて

自由に やっていって欲しい

 

母親って基本

何があっても

受け入れが はやいと思う

 

愛情があれば

どんなことも なんとかなる

 

それで いいんだよ

あなたは

今のままで十分なんだよ

 

あなたは あなたのままで

十分愛されているんだよ

というメッセージも

 

息子たちや 大切なひとに

伝えていけたらいいな

2023年9月11日 (月)

サポートの努力 学び

心臓を

自分で動かせないように

不安も

自分でコントロールできず

大きくなることがある

 

体の病気は

心の病気に比べると

数字で見えるから

というのもあるのか

周りのひとに理解されやすい

 

けれど

見た目では

わからない障がいや

心の病気は

理解されないことが多い

 

不安は 見えないからね

 

心が苦しいひとが

辛さをわかってもらえない

理解されないことは

普通にある

 

ドクター カウンセラー

経験者だからといって

理解してもらえる とは限らない

 

母みたいに

ちょっとした不安や

体の辛さなんかを

理解してもらえない

受け入れてもらえない ばかり

気にすると

わかってもらおうと

誰かに依存するようにもなる

 

ストレス発散を

ひと ではなく

好きなものや 趣味で

したいもので

 

サポートには

深い愛情が必要になる

 

次男のような病気の

心のサポートは

恨まれたり

八つ当たりされたりすることも

ある

 

家族に できないことは

ドクターにも できない

 

薬で静かになったから

解決した

というのは間違いで

 

サポート側が

大変で 苦しいからと

ひとまかせ または逃げては

いつまでも お互いに苦しい

 

サポート側は

すべてを受け入れる

一緒に頑張るという努力が

果てしなく続く

投げ出したら 最悪の結果になる

 

サポート側が 死にたくなる

こともある

 

次男に

共感すればよいのに

できていなくて

反省することも あったな

 

ふたりで笑える日は 必ず

やってくる

 

愛情は なにより尊いはず

愛情を持って

時間をかけて 望んだ未来に

できるといいね

2023年9月 7日 (木)

喜ばれ人生

ひとに

喜ばれようとして ばかりだと

わたし の心が 喜びたいことに

気づかない

 

わたしの こころ

からだは

わたしを おもい

 

わたしが 喜び

わたし自身が 幸せになる選択を

してほしいと

願っているはず

 

ささいな選択

出かけ先 外食先を選ぶとき

 

癖のように

周囲のひとが喜ぶもの

を選んでいる

 

わたしの 心が選んだものを

伝えてみる

ということを

まるで 忘れてきた

 

自分さえ 我慢すれば

トラブルにならないと

いつの間にか 我慢

 

わたしが

母親になってからは

母乳のため 子供のため

元気になるため

 

栄養を考えて

バランスよく食べなくては

いけないと

おもいこんできた食事

 

食事が苦痛で

食べ過ぎてしまうことも

あった

 

好きなものを

好きなときに

食べたらいいのにね

 

自分より誰かを

優先しがちな

周囲に優しいひとは

 

たまには

自身に優しく

自身の 求めることを

してみたら  いいかも

2023年9月 3日 (日)

心配

親は心配する生き物という

 

心配には

いろいろあって

親の自分勝手な心配

子供への愛情からくる心配

行きすぎてしまって

子供を否定したような心配

 

心配イコール愛情ではない

お金イコール愛情でもない

 

病気のとき

困ったとき

どんなときでも よりそう

というのが

愛情 ではないのかな

 

心配することが

愛情ではないのに

心配されることが愛情と

親も 子も

思い込んでしまうことがある

 

子供は親に

心配をかけないように

行動する

親も子供に

心配をかけないように

行動する

 

心配されなすぎると

不安になる

心配のほどほどって難しそう

 

無関心 無視は

愛情を感じられない

 

母親としては

疲れたとき

困ったときに

帰れる場所に なりたい

 

何があっても

子供の味方でいて

最大限

受け入れたいな と思う

2023年8月30日 (水)

受け入れられる容量

ひとそれぞれ 

そのひと そのひとの

受け入れられる容量

かばん

の容量 ってものがある

 

大きなかばん(大きな器)

が いいようで

大きすぎると 重くなる

 

そのひとの かばんの

容量以上のものを 持てば

抱えきれなくなる

 

多くのものを

受け入れようとして

手をぎゅっと グーにして

握りしめたら

力を入れすぎて

指の間から

たくさんのものが 落ちていく

 

器に

器以上の水を注げば

水は あふれる

 

ああ もったいない

 

抱えきれなかったもの

落ちたり あふれたりしたもの

のなかには

 

後々 考えてみたら

大切なものが ふくまれていて

 

いったい

わたしは 何を守り

何がしたかったのだろうと

後悔もする

 

そのときどきで

どうしても 手放せない

譲れないことが ある

 

よかれの判断が鈍る

入ってくるものを

すべて

受け付けてしまうことも ある

 

以前より

地球の時間が速くなっている

というんだから

もう

振り落とされそうだ

 

頼まれごと

日々のタスクも多い

 

わたしみたいに

日々 ぼんやりしたひとでも

多い というのだから

 

人望があり

多くのひとに

必要とされているひとは

その声に

懸命に 答えているはず

 

優しさや真面目さ

から

いっぱい いっぱいに

なりながらも

答えていると 思うのだけれど

 

悲しいかな

かばんに入らないものは

入らない

グーにしても

器に注いでも 

落ちたり あふれたりする

 

すべてに答えるわけには

いかない

 

そこで

選択に迫られる

 

何かは 断らなければならない

どこかで 

線引きも しなくてはいけない

チャレンジを休む

どれかを 手放す

 

やめる という選択肢もある

 

まぁ

それを やらないと

大切なものを 失ってしまう

 

自分らしくいられなくなる

自分を 大切にできない

あげく

自分も 失ってしまう

 

例えば

家族への愛 恋人への愛 

仕事 地位 などなどのなかで

手放したくない愛 があったとして

 

手放したくない愛を

安心させなければいけない状況だ

というのに

 

難しく考えすぎて

さきのばしにする とする

 

現状維持に 安心感だけは

あるけれど

さきのばしにしたことで

相手は束縛され 苦しむことになる

 

仕事か愛か 家族か愛か

などなど

愛については 臆病になり

極端に 考えがちだけれど

 

どちらも  

犠牲にする必要はなく

どちらかを 選ぶ必要もない

どちらも 手にしていい

 

わざわざ

苦労する必要もなく

苦労しないで

笑って暮らしてもいい

 

わたし ぼくの かばんに

大切なものを 入れよう

インナーチャイルドを癒す

過去は変えられない

未来は変えられる

 

とはいえ

過去も

考えかたや 見方を変えれば

違った印象になる

 

それは

変わったともいえるかな

 

嫌な過去も

自分の一部

だから今の自分がいる

受け入れて 人生の肥やしにしちゃえ

 

小さなわたしが

子供のころから うけた傷

あれこれ

 

当然

子供だったから

何もできなかった

 

そんなときは

 

そのときの自分に

自分で

怖かったね 

傷ついたよね

そりゃ 何もできないよ と

声をかけて

自分で自分を 癒して

自分で自分を

許してあげよう

 

許せなくてもいい

苦しくても

受け入れられなくても

それはそれで

いい

そのままで 十分なんだ

 

そのうち

わたしは 誰も

憎んだり

恨んだりしていないことに

気づく

 

許していますと

わざわざ宣言してみることも

ないけれど

なにげに 許して

 

わたしにも あなたにも

黒い部分がある

完璧なんてない

ということを 知ったら

 

因果応報やカルマなんて

考える必要もなくてね

 

わたしを傷つけた誰かも

誰かを 傷つけたわたしも

 

みんな みんな

幸せになればいい

2023年8月27日 (日)

使命みたいなもの 青空の彼

長い間

青空の彼を 思い

連絡を待ちながら

ほこほこした愛情を

毎日のように

彼に向けていたら

 

なぜか

わたしの

やるべきことや

使命みたいなもの

大切なものが

はっきりとしてきた

不思議~

 

エゴや依存 執着

自立について

考えるようになり

 

わたしの

考えかたや言動に

自信が もてるようになった

 

彼が

どのような状況にいて

何を

どのように考えているのかは

まったく

わからないのだけれど

 

彼を思うと

勇気が持てた

 

それに もし

わたしが 

誰からも 愛されて

いなくて

誰からも

理解されなくても

 

わたしが

わたしを愛したり

理解したり

 

わたしが

大切なひとを

思いっきり 愛して

理解しようと 努力したり

していれば

 

愛に包まれて

慌てることもなく

孤独になることも

怖がることも ない

 

ということも

よくわかった

 

まぁ ぶっちゃけ

愛されたい

愛を伝えられたい

けれど

 

あたえられるより

あたえる方が幸せという

 

とにかく愛は

最強なのだ 

2023年8月26日 (土)

もっと大切にしたい

大切なひとを

もっともっと 大切にしたい

ということが

最近のわたしの 願い

なのだけれど

 

息子たちを

大切にしたいと

強く思っている 

 

愛情深く

丁寧にやっていきたい と

考えては いるけれど

 

大切にするとは

愛情とは

丁寧とは と

考えていたら

わからなくなった

 

そのときどきで

柔軟に対応

年齢にあわせた距離感

などなど

 

子育ては

学ぶことだらけ

だったけれど

 

体力も 気持ちも

余裕がなくて

 

もっとこんな風に

愛情を向けられたのでは

ないかな

もっと自由に

させてあげれば よかったかな

などなど

後悔することは多い

 

これからも

わからないまま

愛情を持って

丁寧に 大切に

やっていきたい

 

信頼や

なかのよさは

長い間の結果だと

思うので

 

長男とは

こじれてしまったけれど

次男には

信頼されていて

愛情は伝わっている

 

愛情がなく

無関心でいることを

愛されている

信頼されていると

旦那は 思うようだけれど

 

愛情があれば

心配する

助けたくなる

 

ただの

無関心ではなく

 

なにもしないでいる

ということも

ふくめ

 

これから

どのようにしていくことが

大切なひとを大切にする

になるのか

 

つどつど よく

相談して

ゆったりとしていたいと

思う

2023年8月15日 (火)

お金イコール愛情ではない

お金イコール愛情ではない

 

とはいえ

エアコンがなく

電気代が払えない

食費もない

という老人のかたを

メディアで観ると

考えさせられる 

 

命のためには

お金が必要

 

お金がない家庭で

笑っていられるのと

高収入ゆえに 

家庭が難しくて

我慢をしているのと を

極端だけれど

比べてみたら

 

どっちが幸せか

なんて

個人の感じかたの問題だから

わからないけれど

 

我慢

のおかげで生活できる

というのは

違う気がする

 

ぶっちゃけ エアコンは必要だ

 

お金イコール愛情ではない

生活費や学費を払ったから

愛情を注いだ

にはならないと思う

 

病気のとき

困ったとき

どんなときでも よりそう

というのが

愛情 ではないのかな

2023年8月 2日 (水)

忘れたいとき

忘れたいとき

考えないようにしようと

思えば思うほど

考えてしまう

 

このボタンを

押さないでくださいと言われて

押してしまうのと

同じ かんじ

 

無我夢中で

何かしていると

嫌なことを忘れる

という

 

車イスのひとが

記憶喪失になり 歩いた

というように

忘れるのは いいこと と

言われているけれど

 

楽しいことや

興味のあることを

探して

夢中になっても

 

忘れたいことは

なかなか忘れられないもの

 

忘れなくても

自分の一部

 

人生の肥やしにすればいい と

わたしは思う

 

そのままで

別にいい

 

これは問題だ

悪い よくない 不快だ と

解決しようとすれば

苦しい

 

たいしたことではない

いつものことで

ただの出来事 と思えば

苦しくない

ということも

なかには あるかもしれない

 

けれど

ただの出来事

にしてしまうと

感情がなくなる

記憶にもやがかかる

 

物事を

大きくとらえるのも

小さくとらえるのも

大小に

自信がなくなるのも

 

そのとき

そのひとの感情だから

否定はできない

 

その感情は

尊重すべきこと

 

否定せず 

受け入れるべきこと

なんだと思う

ほめることを忘れがち

自分や 身近なひとの

ほめるところがない

落ち度ばかりが

気になることも ある

 

ほめることを

忘れがち

 

ほめるところは

案外 見つかるもので

自分のことも

身近なひとも

意識して ほめよう

 

ほめることがない

ほめるなんて

考えてもいなかった

という悪い状況でも

必ず

ほめるところはある

 

悪い状況にいるひと

のほうは

ほめられることがない

ほめられるはずがないと

思っている

 

わざとらしい ほめかたは

よくないけれど

日頃よくみていれば

そのひとに

ピタッとくる ほめる

が できるようになる

 

やばっ いいね

という言葉でも なんでもいい

ほめ言葉を

年齢にあわせれば

伝わりやすい という

 

とかなんとか

わたしも これだけ

自分で書いておきながら

 

正論 

ポジティブに疲れる

 

よかれと

ひとから言われた言葉に

傷つくこともある

 

学び 気づき

後悔

反省することも多い

 

ああ

しんどいな

 

そんなときは

自分のペースで

自由にいられたら いいな

 

逃げられない

やめられないと

思うから

しんどくなるだけで

 

逃げて

やめてみればいい

 

うざったいときは

毒をはいてもいい

 

身近なひとと

わかりあうための

ケンカをしてもいい 

 

トラブルを避けて

弱々しくいるのも

それはそれで 十分いい

願いが叶わないときは

自分の願う未来

純粋に こうなりたいという

思いは

未来を変えていく という

 

だけれど

信じられなくなるときって

普通に ある

 

願いがあって

叶えたいとき

 

いつまでも

叶わなかったり

時間がかかりすぎたり

したら

 

だんだん 卑屈になり

自己肯定感も 低くなり

ネガティブな気持ちに

願いが 負けていく

 

そもそも その願いは

本当に

自分の願いなのか

いつの間にか

頑張ったご褒美 みたいに

考えているけれど

ご褒美なのかな

ということを

一度落ち着いて

考えてみる必要がありそう

 

例えば

自分の幸せが

お金がたくさんあること と

考えていたとして

 

神様からしてみたら

(何の神様かは

わからないけれど)

自分が

毎日笑っていることが

幸せだとする

どっちを望む?

 

願いの内容が

望む幸せに つながるなら

道がひらけてくるのでは

ないかな

2023年7月15日 (土)

幸運と不運

幸運や喜びを

ひきよせようと動けば

動けば動くほど

不運も味わうことになる

という

 

世の中って厳しい

地球は牢獄なのかも?!

 

なら

動かなければ

なにも起きないのか

というと

それはそれで

さまざまな苦難が

やってくる

 

幸運そうなひとが

苦労していることもある

 

いかにも 不運そうなひとが

幸せだったりする

 

かたよりながら

ほどほどを 

うまく生きているひともいる

 

なので

動いても 動かなくても

どちらにしても

不運や苦難をさけることは

難しそう

 

そんなとき

なんでもかんでも

ピンチをチャンスにする

戦闘態勢でいるのも

 

不運や苦難から

ちょっと学び 成長

いつか

立ちあがれたらいいじゃない

なんて きれいごとを

考えても 

疲れてくる

 

奥歯が

ギリギリするほどに

不運や苦難を味わったひとは

言わないような

言葉を

メディアで

いかにも と

話しているひとを観たり

文章を読むと

 

このひとたちは 

どん底に落ちたことが

ないのだろうな と

未熟な わたしなりに

違和感を感じる

 

わたしは

自分の考えに 自信がないので

ひとの考えに流されて

しばらくしてから

なんだか 違うな と

思うことがある

 

それにしても

ポジティブがいいと

思いすぎると

苦しくなるもので

 

ネガティブはダメ

というわけではなく

どっぷり

落ち込んでみるのも

いい

 

ポジティブとネガティブは

バランスよくして

 

元気をだして

自分が

笑っていられる未来になる

ように選択するのだ

とはいえ

 

自分以外のひとを

優先してしまうことも

あるじゃない

 

そもそも

どんなことにも正解

なんてないのだから

 

こうあるべきだ

なんてなくて

偉そうにも言えなくて

 

やってみなければ

わからない

 

失敗したら

失敗したときに

考えればよいだけで

 

そもそも

失敗なんて

存在しない気がしている

 

失敗や✕なんて言葉は

やめて

おしい もうひといき

にすればいいのに

 

こんなことを思う

わたしは

ポジティブじゃないと

明るくないといけない

とりつかれているのかも

しれない

ない と ある

自分にないもの

ばかりを探したり

気にしたりしていると

ない ないになる

 

ある

与えられているもの

を考えてみたら

 

例えばだけれど

家があって

子供がいて

生きている 

ケーキがおいしい

水に感謝 などなど

 

あれもこれも

ありがとう で感謝いっぱい

なんだけれども

 

無理に

ありがとうと

思う必要はないかな

 

正しいにばかり

とらわれていると

疲れてくるじゃない

 

自然に さりげなく

小さなことに

ありがとうと思っているうちに

 

幸せな気持ちが

あふれてきて

ありがとうが増えていく

 

ありがとうに

失ってから気づくなんて

嫌だから

失う前に気づきたい

 

なので

気持ちに余裕があるときは


小さな感謝を

してみるようにしている

2023年7月 8日 (土)

病気と仲良くできたら

元気に

遊びに行っているだけが

幸せではない

 

幸せには いろいろあって

 

病気でも 通院中でも

幸せは 幸せで

 

幸せの

ひとくくりには

病気も入っている

 

病気は

なにか ひとから

否定されるものでも

不幸がられるものでも

なくて

 

苦しいばかりでも

頑張らなくては いけないもの

でもない

 

病気がよくなれば

何をしようかなと考えてみたり

よくならなければ

家族をどうしようと 悩んだり

 

回復すれば

回復した喜びや

感謝の気持ちがあふれたりと

 

病気だからといって

暗い気持ちで

ひたすら 戦う必要もなく

 

自分は かわいそうだ

何もできない

必ずよくならなければ と

やたら思う必要も

ない

 

病気で

つらいときはつらいでいい

痛いときは 痛いでいい

苦しければ 苦しいでいい

やってられないなら

やってられないで いい

 

思うこと 自由

 

体が苦しいときは

何も 考えられないけれど

 

嫌だな

と思ってみたり

ちょっとは いつもより

自分を大切にしてみたり

 

休んだり

苦しくて眠れなかったり

孤独に思えたり

涙したり

 

いつもは考えないことを

考えたりして

 

理不尽さに腹を立て

理解されないことに悩み

 

元気なひとが

うらやましくなり

ねたんだり 嫉妬したり

 

そんな風にしながら

 

病気を否定しないで

病気と仲良くして

 

受け入れたり 怖がったり

投げ出したり

逃げようにも 逃げられず

悲しんだり 

それは自由に

 

治療をたんたんと

こなしていく

 

無理に笑う必要は

ないけれど

病気でも

笑っていていい

喜んでもいい

 

幸せでいていい と

わたしは 思うんだよね

休むには いろいろあって

休めるわけがない

やらなければ いけないことが

山のようにある

 

やろうと思えば

家事 育児 仕事

もう 無限にある

というひとは 多いと思う

 

休む

というのは

なにもしないで

ぼーとする

だけではなく

 

これ以上

増やさない

チャレンジしない

ということも

 

休むになる

 

優先順位の下の方をやめる

例えば

たまには

お総菜を買う

というのも

 

休むになる

2023年6月11日 (日)

苦しむひとを 目の当たりにしたとき 2

苦しんでいるひとは

すべてを受け入れられることで

理解された

苦しくていいんだ 

わたし ぼくのままでいいんだ と

マイナスの感情(自分)を

受け入れられるようになる

 

マイナスの感情は

悪いものではない

 

話しても 感じてもいいもので

自分を守るためのもの

 

苦しいことがあれば

苦しいのは 当たり前

弱いわけではない

 

苦しいでいい

 

しばらく休んだら

どうしたいか

という言葉が

苦しむひととの雑談から

ポロッと でてくる

 

受け取る側は

さりげなく

希望を叶える手伝いをすればいい

 

言葉をかけるなら

無理なら

途中や直前に やめてOK

選択肢はひとつではなく

いろいろあるよ

くらいにしておくと

やめられない ひとつしかないと

苦しんでいるひとは

気が楽になる

 

楽しいことを見つけたら

一緒に

楽しい時間を過ごす

 

楽しい時間を過ごすうちに

信頼がうまれてくる

一緒に

やっていける

 

ここまでくれば

お互いに

幸せな気持ちになれる

 

そこに

到達するには

すべて 否定しない

心から

苦しむひとを

認めて 受け入れる

ということを

根気よく 時間をかけて

やっていくことが

必要になってくる

 

相談にのる 受け取る側は

何もしないで

どんなことも受け入れるという

根性と器 平等さ

感情コントロールが必要で

 

とんでもない優しさと強さ

精神性の高さが

欲しい

 

受け取る側が

余計なことを

いいそうになったり

うまくいかない場合は

 

気持ちに余裕がない

わからない

ということを

正直に伝えるのもあり

 

しばらく離れて

静かに見守るのもありで

柔軟に対応したい

 

お互いに

やたら 失敗 成功という

物事のとらえかたをしないで

 

相談にのる 受け取る側も

疲れるばかりでなく

自分が

気づき 成長していくことを

喜んでいよう

 

逆に

自分の苦しさを

相談したい場合は

なるべく言葉で

表現したいものだけれど

 

苦しすぎると話せない

頭の整理ができていないと

支離滅裂になる

かまってちゃん

嘘をついていると

思われてしまうことも ある

 

自分が

どういうことが苦痛で

どういうことが嬉しいのか

信頼しようとしている相手に

少しずつでもいいから

話していけば

 

全く理解してくれないひと

ばかりの絶望のなかで

ひとりで もがくしかない と

感じていても

 

必ず

不器用ながら

愛情を向けてくれるひと

理解しようと努力してくれるひと

すんなり理解してくれるひとが

見つかるはず

 

苦手なひととは

距離をおくべきだけれど

 

大切に思えるひとなら

お互いに

嫌になることも 多いなか

寄り添い 行きつ戻りつ

いつの間にか

ふたりで

笑っていられる

 

自分がどうしたいか

という

自分を大切にする気持ちが

もてたら

 

なにもしないで

休んでいたいも ありなので

ひとに

話してみたらいいと思う

 

だいたい

一度でうまくいくことなど

ないので

挫けそうになるけれど

 

自己犠牲ではなく

自分はどうか どう思うか

どうしたいか どうなりたいか を

大切にして

充電できたら

 

挑戦したり 休んだり

ひとりを楽しんだり

後悔したり

ばかなことをしたり

泣いたり

笑ったりしながら

 

ともに

生きていけるひとを

探せたらいい

 

ひとりがいいなら

誰かと生きていく必要もないので

 

自分の一番の理解者は

自分

自分で自分を大切にして

自分を自分で愛していけたら

 

幸せだと思う

 

わたしは

今のところ

そんな風に考えている

苦しむひとを 目の当たりにしたとき 1

苦しむひとを

目の当たりにしたとき

自分が苦しんでいるとき

 

いったい

どうしたらいいか と

悩むことがある

 

ひとりひとり違う人間

これが正解 はないと

思うのだけれど

 

わたしの

経験から学んだことを

書いてみる**

 

苦しんでいるひとを

目の当たりにしたら

 

なんとか元気にしてあげたい と

思い 慌てる

 

苦しいよねと

声をかけたら

もっと苦しくなるのではないか と

思い

怖さから 共感できず

やたら励ます 

苦しんでいるひとに 行動させようとする

 

マイナスの感情を

悪いことのように思い

打ち消そうとする

 

家族にできることを

考えないで

専門家を頼りすぎ 悪化する

 

目を背けて逃げる

苦しんでいるひとを 下に見て

意見を言う

 

ということは

ありがちなこと なのかもしれない

 

同じ苦しみを経験したひとや

心理を学んだひとなら

どのようにしたらよいか

または

何もしないのがよい を

ある程度 知っている

(専門家でも

わかっていないひとは わかっていない)

 

苦しんでいるひとは

 

こんなことで

苦しんではいけない

もっと強くならなければ と

苦しんでいる自分を 否定したり 

 

もしかしたら

受け取りかたの問題で

苦しんでいる内容は

たいしたことでは

ないのかもしれない と

苦しみに

自信がなくなったり

 

苦しいことは

思ってはいけない

話してはいけない

マイナスの感情は 悪いことだ

もっともっと 頑張らなくては と

思いこんだり

 

誰にも

受け入れられない

認められることも ない

理解してもらえない 

否定される ということに

傷ついたり

 

ひとりになりたい

そっとしておいて欲しい と

拒絶したり

 

記憶があいまいだったり

やたら下に見られたり

という

不安や恐怖のなかで

孤独に

さまざまな気持ちを 抱えている

 

そんなひとを

目の当たりにしたら

 

おせっかい自己中な

わたしは

求められていないのに

全力で力になってあげたい と

暴走するのだけれど 

 

つらいひとには

つらいよね

という共感だけでいいんだ

 

つらいひとに

意見を言う

元気にしてあげようとする

否定 になるよね

 

ということを 

経験から学んできた

 

受け取る側の

「どんなことも受け入れ

あなたを認めている 

それでいいよ そのままでいいよ」

という

態度やメッセージは

 

心からの態度なら

苦しんでいるひとに

安心感を与え

否定される

怒られることがないので

緊張がほぐれ

苦しんでいるひとは

話しやすくなる

 

解決したいからと

認めたふり

受け入れたふりは

不快になるだけ

 

受け取る側に

心から受け入れる気持ち

学びが

必要で

 

受け取る側に

免許は必要ない

 

受け取る側の

そんなの

たいしたことないよ

もっと 不幸なひとがいる

元気になるべきだ

甘えている

行動しなさい

もっと頑張りなさい

という

態度や言葉は

受け取る側の自己満足にすぎない

 

苦しいひとを 傷つけている

 

受け取る側は

正しいことを言ったと思い

苦しんでいるひとを

さらに傷つけている自覚のない

ひとが多い

 

苦しんでいるひとは

あきらめ

もう話さないでおこう と

静かになる

それで うまくいったと

勘違いする受け取る側も

多いと思う

 

受け取る側は

ただ ひとこと

それは つらかったね

不安になるよね

悲しいね 苦しいよね と

共感すればいい

 

これからどうしたらよいか

何が正しいか

などという言葉は

受け取る側が

実は

自分の不安から言っているだけで

苦しんでいるひとに

寄り添っているわけではない

下に見ている

 

自分が正しいとばかりの

アドバイス

正論パンチばかりは

誰にとっても きつい 

 

わたしの文章も

うざったい

**続きます**

病気でも幸せならいいじゃないか

最近

毎日

楽しいな 幸せだなと

しみじみ

思うようになった

 

わたしは

難病ではないので

気を悪くするかたも

いらっしゃるかもしれないけれど

 

病気は

つらくて 孤独で

やりたいことに

制限があるものの

 

病気でも

楽しめる

幸せになれると

知った

 

つらいは

つらいでいいと思う

孤独は

孤独でいいと思う

 

幸せには

幸せがくっついている

どんどん

幸せが ふくらむ

 

大切にしたいものを

考えて

好きなことを見つければ

 

予算は ないけれど

それはそれで

工夫して

 

青春のやり直しみたいに

楽しく過ごせると

実感した

 

この

おなかのあたりから

ふつふつと わいてくる

幸せは

 

幸せの予感なのか

毎日のささいな幸せを

幸せだな と感じているのか

わからないけれど

 

これからもっと

贅沢ではなく

普通のひとが

普通に味わうような

 

楽しいことや

素敵なことを 見つけたい

 

(わたしの恋は

まるで

進まないので

悲しい気持ちになるけれど)

 

日常を

楽しんでいきたいと思っている

2023年6月 6日 (火)

考え癖にしてみたら

罰や怒りだけで

解決できるものは

この世の中に ないと思う

 

だから

何かを解決したいとき

罰や怒りを利用するのは

意味がないと わかる

 

本当に伝えたいことを

伝えたい

 

普段

私たちが怒るとき

怒りのなかには

さみしさや

悲しみ

SOS などなどが ある

 

それを

怒りとして伝えている

 

これって

ちょっと原始的

怒りの方が 楽なんだよね

 

深いところで

感じている

本当の思いに

話している自分も 聞いている相手も

気づいて

 

本当に伝えたいことを

伝えられたら

 

おだやかな毎日を

過ごせると思う

 

どこまでも

追求してみたら

自分でも

気づいていない気持ち

話した内容とは

まるで違う気持ちの存在

があるもので

 

それが

本当に伝えたいこと

なのだと思う

 

どんなことも

こうじゃないといけない は

ないので

 

こうじゃなくても

いいよね 

 

こんないいことも

あったよね

 

ということを

考え癖にしてしまえば

 

心が

自由になれるかも

2023年5月24日 (水)

被害 解決は難しい

最近メディアで

せ☆被害についてよく

目にするようになってきた

 

性別関係なく 

訴えるひと

裁判をおこすひと などなどをみてきて

 

わたしにも

結婚前

家族 恋人など

大切に思っていたひとからの

似たような被害経験が

ざっくり4つ ほどあることを

思い出す

 

☆い的虐待や

☆い被害というものは

 

そのときは

幼くて 若くて

被害者は 

あってはならないこと

だということを

認識していない

 

大人になって

理解できるようになり

訴えても

解決は難しい

何重にも 苦しむことになる

 

過去の出来事は

忘れて

なかったことのように

暮らしても

 

ふとした瞬間に

言葉や出来事が

映像のように

フラッシュバックしてくる

 

傷ついたり

自分の

勘違いかもしれないと

思ったりしながら

 

生活のなかで

何度も

フラッシュバックが

現れたり消えたりを

繰り返し

 

ずっと苦しむことになる

 

わたしには

被害を話せる

信頼できるひとが

現れていないので

きちんと誰かに 相談したことは

ない

 

ひとを信用できなくなる

被害者

 

たいして

加害者は

責任を感じていないことが

多い

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momo

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