悪くないひと
ただ単純に
相手が
嫌がることをしない
喜ぶことをする
ということができたなら
なにも悩むことはなく
それでいいのではないかなと
思った
だけれどわたしは
これは時に
必要なことかもしれないけれど
自分の正しいと思う考えで
相手が嫌がることをしたり
喜んでいるひとを見て
複雑な気持ちになったりすることがある
はたして本当に
相手の気持ちを考えて
相手のことを
大切にしているのかと
自分に問いかけてみると
案外自己中で
虫バイ菌みたいなわたしがそこにいて 笑
相手の心だけをみて
相手だけのために動いているとは
いえない時もある
シンプルに
相手の気持ちを尊重して
相手が嫌がっているからやめよう
喜んでいるから良かった
というだけで生きていく
というやり方を
しているようでしていない
大人になったら
なかなか生き方を変えられなくなるもので
日々柔軟な心持ちに
ならなければと
思う
相手のためだからと言いながら
自分のためではないの?
心休まるように
してあげたいと思いながら
うるさくしていないかな?と
自分をチェックしてみたり
相手が嫌がるなら
嫌がることをしない
やめる
ということにしようと
気をつけてみたりと
そんな時間が必要になる
話は違うけれど
もしも次男の担任の先生に
付き合ってくださいと
言われたら
誰もわたしも断らないと思う
ということから考えてみた
恋愛についても
結婚についても
子育てについても
何ひとつ悪いこと
ちょっとこれはと思うことをしないで
正しいと思うことを
無理をしないでやってきて
丁寧に
ひとを大切に
生きてきていたら
恋愛についても
断られることはなく
結婚についても
さほど問題がなく
子育てについても
さほど問題がない
という人生なのではないか
つまり
まわりのひとに
信頼されない
嫌われる原因は
なにかしら自分にあるというわけで
わたしがもし
担任の先生のように
人格者で
きちんとしている人間なら
相手もきちんと答えてくれるはず
これはわたしだけではないのだけれど
自分が幼い頃から
自立するまでに受けた傷が
知らず知らずに
好きなひとや恋人
パートナー
子供に
影響していて
自分がやられて嫌だったことを
自分はやらないと思いながら
似たようなことになっていたり
甘えがあったり
はたまた
プライドが邪魔したり
ありのままでは認めてもらえないと
思い込み
自分の器以上によく思われたいと
もがいたり
さらには
恋人は 結婚とは 子育ては
こうであるべきだ
というようなものがあって
そうじゃなくてもいいのに
力が入りすぎてしまう
ちょっと違うかなと気づいたら
やり方を変えて
また変えて
反省したら休んで
また変えていかなければ
問題が勝手に解決するわけもない
もう十分やってきて
反省もして
喜んで
十分失敗もしてきたけれども
よく考えると
シンプルに
小さなことから大きなことまで
相手が嫌がることはやらず
嫌ならいいか
やめておこう
これは
喜んでもらえそうだわと
考えて行動すれば
嫌な自分に
出会うこともなくて
さらりと幸せが
見えてくるのではないかなと
思った
正しく生きていくだけが
幸せではないと思うけれど
やたらにひとを傷つけて
生きていくのも
おかしなはなし
もしわからなくなったら
まず相手にどうして欲しいか
聞いてみるしかない
どうして欲しいかわからないなら
どうしようかと
一緒に考えていくしかない
相手が何もしたくないなら
こちらも何もしない
意図的に何もしないというのは
修行のようだけれど
何もしないでいるということも
必要な時がある
悪いことばかりのひとは
いつも苦しんでいて
悪くないひと
には
さらりと幸せが近づいている
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