やってみるという気持ちへのサポート 立ち直りへの長い道
次男の学校の
いつもお世話になっている先生がたは
子供に負荷をかけないので
癒しの空間が
出来上がっているのだけれど
外部からいらっしゃる
先生がたは
そこまでではなくて
さらに
次男の学校の
音楽の授業などは
なんとも独特な世界で
私達が学んだ音楽とは
違い
何が起こるのかわからない
とはいえ
次男は
私達が学んだ音楽の時間
というのも知らないわけで
いきなりソロに
指名されている
自由な授業というのも
緊張の連続
わたしにしかわからない程度に
動揺したり
気もそぞろだったりの次男を
わたしが
サポートするにあたり
間違えると
次男が食べなくなり死に近づく
うまくやれば
自信になる
わけだけれど
相当細かな
気配りや作業が必要になる
周りの環境はというと
かげろうのように参加している
今にも消えてしまいそうなひと
逆に積極的に参加しているひと
いろいろ
子供たちは
みんな優しい
授業の感想を書くとき
次男は
手が震えたり
字がおかしくなったり
授業の記憶がなかったり
するので
事務室でのんびり
ふたりで書かせてもらっている
それでも
一字 一字
わたしが書いて見せないと
うまくいかなくて
完成したころには
ふたりでヘトヘトに
途中
緊張を和らげるために
わたしが
おかしな感想を書いて
ふざけてみたり
相談しながら
笑ったり
していると
白紙でも大丈夫よと
みなさん言ってくださるのだけれど
次男が
やってみたいと言ったことは
可能なかぎり
すべて
経験させている
言わなければ
やらない
だいたい
次男みたいなタイプは
やってみたいなど
言わないだろうと
世間のみなさまは
思うかもしれない
わたしも以前はそう思っていた
ところが
他にもいろいろな選択肢が
用意されていて
何もしないも
OK
という環境なので
しばらくすると
やってみる
という言葉が
本人から出てくる
ほんと驚く
他の方法が
用意されていると
次男が
失敗した
という失敗経験や
間違えた
という緊張感がなくて
やりかたがあわなかっただけ
やりかたを変えてみよう
しばらく休んでみるのも
楽しいことだけやるのも
よし
と感じられるものだから
何年も
かかることもあるけれど
ある日突然
次男のやってみるが
次男から出てくる
そこで
どうやってやっていくか
よくわたしと先生と
相談して
安心できるやりかたを見つける
それで
絶対ではなくて
当日
やっぱりやめるもOK
他のやりかたに変更もOK
やっぱり帰るもOK
とにかく
行っても行かなくても
どっちでもいい
という
絶対がない考えかたで
サポートすれば
やってみようかなが
次男から芽生えてくる
それまでわたしは
ひたすら待つしかない
そして
だるいよね
やっぱりやめてもいいよね
どっちでもいいか
などと
わたしが負の言葉を使い
わたしは平気だよを
みせておく余裕も必要になる
ひとをひとり
いやわたしの場合
ふたりかな
立ち直らせるには
とにかく受け入れて
時間をかけて待つしかない
そして自分も
リラックスすることが大事
何も変化していないじゃないと
思うときでも
見えないところは変化していて
いつか
機が熟すときがくる
きたるべき時は必ずくる
というもので
よくならなくても
いいじゃない
悪いままでもね
子供は
生きていれば
それだけで親孝行なのだから
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