わかってもらうではなく
今回は
親と子
子と親で
書いていくのだけれど
これは
自分と誰か
誰かと自分
男女
親友にも
当てはまるので
自分と相手
相手と自分に置き換えても
同じことがいえるのではないか
などと思いつつ書き始めます
*****
親
に必要なことは
「親の気持ちをわかって欲しい」
ではなく
「子供の気持ちをわかってあげられる」
ということで
この
「気持ちをわかってあげられる」
がまるでないと
子供に
絶縁されてもおかしくない
(ちなみにわたしと母は
仲良しです)
いやいや
相手の気持ちなんて
本当のところわからない
自分はある程度わかっているはず
気遣いもできているはずだよと
思いがちだけれど
ぼんやりしていると
ある日突然
相手に拒絶されることもある
(わたしと長男みたいにね)
子供が
拒絶しているなら
子供は拒絶することで
自分を守ろうとしているわけで
拒絶している
嫌がっている
だから子供が「苦しんでいる」
ということを
親がどれだけ
わかってあげられるかが
大切になってくる
よくよく考えてみたら
子供のために動いているはずが
親の気持ちをわかって欲しい
がために
自己中に動いていないか
その気持ちのまま子供に
声をかけたり
手紙を書いたり
プレゼントを渡したりしても
それはただ
親の気のすむようにしただけで
子供の拒絶は
大きくなるばかり
えっ なぜ?
自分は一生懸命やっているのに
いやね
だいたいひとは
「わたしの気持ちをわかって欲しい」
という自己中な考えで
悪口を言って
騒いで
相手が共感してくれたり
自分の思うように動いてくれたり
することを
求めていたり
するじゃない?
ここで
親が
自己中をやめて
拒絶している子供の気持ちを
よくよく考えるならば
「そっとしておく」
言いたい親の気持ちを
「ぐっと我慢」しながら
拒絶している子供の気持ちを
理解する努力をする
子供の気持ちに注目して寄り添う
つまり
何もしないことが
大事になってくる
ついつい親は
声をかけたり 手紙を書いたり
プレゼントを渡したり
してしまうけれど
拒絶している子供は
それらを
嫌がる
捨てる
などと苦しい選択をしなくては
いけなくなる
拒絶されてショックだけれど
実は
拒絶するがわも
苦しいんだよね
子供は
親と仲良くしていた方が
特に決まっている
困ったときには
助けてもらえる
無償の愛をもらえるのだから
その方が楽だよね
なのになぜ
「拒絶」を選んだ
のか
そこには
「よほどの理由」がある
長い間つもりつもってきた
さまざまな理由だったり
子供が成長過程で
親の理不尽さに気づいた
だったり
その理由を
なんとかしようと
親が
「自分の気持ちをわかってもらおう」と
動けば動くほど
親は子供に
「毒を注入」することになる
それに
「相手が自分の思うようにならない」
ということは
幼いころから
人生経験のなかで理解していくことで
母親とはいえ
母親も人間
子供も人間
子供が思うようにならないなら
母親も思いようにならないもので
心は浄化されていくもの
だから
子供との間に
「よほどの理由」を作ってしまい
長い間気づかないでいたことに
反省したら
親は
毒を注入するのはやめて
そっとしておく
人生経験のなかで
解凍されていくまで
子供の
「気持ちをわかってあげられる」
ということに
注目 努力していく
それだけが
親にできることだと思う
自分 自分と
自分の気持ちばかり
知らず知らず考えているうちは
何も変わらない
子供を
そっとしておく
親が我慢する
つまり
子供には何もしない
ということが
親のできることになる
愛情があるからこそ
空回りしてしまうのだけれども
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