疑われてからのスタート 誰かを信じる理由は
今まで
疑われてからのスタート
というものは
経験がなくて
ブログを始めてから
初めて
疑われて当たり前
の存在になった
最初は
驚いて
わたしが 誰かに
警戒されたり
疑われたりすることが
気になったけれど
最近は
わたしがやりたいように
やっているので
気にも ならなくなった
なぜ
ココでは
信頼してもらえるように
わたしが
頑張らなくてはいけなかったのか
なぜ
ココではいつも
マイナスからのスタートなのか
(ラブレターだから?)
ひとにたいして
答えを出すのが
はやすぎな 世の中なのかも?
はやすぎると
失うものもある
後悔することもある
気になる相手を知るには
ブログ
Face☆ook
インスタ
Tw☆tter
You☆ube
などなどが あるけれど
SNSが存在しなかった
ころ
相手を知るためには
直接
話すしかなかった
手紙 電話
約束や待ち合わせ
行き先探しも
連絡も
やたら
手間が かかっていた
SNSで
本当の自分
いつもの自分を
表現しているかどうか
みているものが
信用できるのか は
わからない
みている側も
好きになったり
美化したり
誤解したり
応援したり
アンチになったり
拒絶したり と
忙しい
受け取りかたも
ひとそれぞれ
なにごとも
自分の
受け取りかたひとつで
状況も
世界も
かわる
実は
よくも わるくもなる
幼なじみだった
同じ学校だった
というなら
さほど警戒しないのかな
仕事関係では
警戒する場合と
しない場合があるのかな
SNSで
ひととなりは
長く観察していれば
だいたい
わかると思う
でも
すべてをさらしているひとは
いないと思うから
情報が
なければないで
想像力を働かせるけれど
情報があるだけに
不安が残る
でしょうね
わたしは ココに
ありのままを
書いてきたつもり
だったけれど
書き方や
わたしの個性で
からかわれているのではないか と
思われることも
あったでしょう と
想像できる
わたしも
いろいろなひとの
いろいろな情報を
みている
やたら
警戒 疑いはしないものの
軽く
ネタでしょう
メンヘラ? かまってちゃん?と
思うときもあるもの
気になる
というのは
単純に好きだから気になる
わけだけれど
もう
みるのは やめようと
しんどく
思うこともある
ひとを疑う
警戒する ということが
必要なときもあるけれど
わたしは
友達にしても
恋人にしても
警戒 疑われてからの
からのスタートは
自然じゃないというのか
きれいじゃないというのか
嫌だな
でも
不思議なことに
愛があれば
愛情だけは
真実に思えてくる
愛ってすごいんだ
だから
いろいろなひとから
愛を
もらっていることに
気づいたり
感謝したりしているうちに
道を譲られた
というささいにみえる愛も
愛なんだなと
わかる
わたしは
愛されているから
存在していると
わかる
だから
愛をきっかけに
誰かを
信じられるようになる
のかもしれないね
« 目標達成は 山の頂上 | トップページ | 悪いところと思いがちな 与えられたもの »
コメント