傷ついたひと 聞き手
聞き手の関わりかたについて
今まで
腹立たしさや
違和感を感じながらも
それが何なのか わからないでいた
やっと
文章にできたので
お暇なかただけ 読んでください**
聞き手の
すべてを受け入れる 認める
という 全面受容は
相手の
存在そのものを受け止める
ということで
条件がいらない
無条件である という 心地よさがある
受容には そもそも
評価や否定 意見が
存在しないのではないかな
というのが
わたしの経験から やっと行き着いた答え
許す 許せないという 価値観や
良い 悪いという 基準が
初めからない
というのが受容ではないのかな
受容する聞き手は
受容しない聞き手と違って
相手が感じていること
そのままを
当たり前のように受け止めて
関わっている
ここで
頑張って という言葉から
書いてみようと思う
元気なひとにとって
頑張っては
ありがとう 頑張るね
なのだけれど
傷ついたひと
つまり
今のままではいけない
愛されていない
価値がない
☆にたいと 思っているひとにとって
頑張っては
頑張っていないという
否定と
もっと頑張れよ という
意見になる
傷ついたひとは
頑張っているのに
これ以上
何を頑張れと言うのかと
追いつめられる
傷ついたひとに
頑張れを言ってはいけない
というのは
こういう理由
頑張っているね
これ以上頑張らなくていいよ
という言葉に
救われるひともいる
コメントの言葉を
お借りして
申し訳ないのだけれど
みっともなくていい
という言葉をかけるとする
それは
みっともないひとだ と
相手を評価して
否定していることになる
自分を
大切にしないといけない
という言葉をかけるとする
それは
自分を大切にしていない
大切にしなさい
という否定と意見を
言っていることになる
受容には
評価や否定 意見が存在しない
なので これは受容にならない
もう少し
わかりやすく?説明すると
傷ついたひとが
自分自身を責めている
聞き手が
自分を責めるのはよくないよ と
優しさから 言葉をかける
正しいこと もっともなことを
口にしたつもり
でもそれは
自分を責めている傷ついたひとを
否定していることになる
(たまたま目にした
心理学者が 言っていた)
わかっていることを
わざわざ聞き手が言う
というのも
傷つくか うざいか ってもので
苦しいね
つらかったね と
傷ついたひとの気持ちを汲めば
肯定が
的外れでなければ
傷ついたひとは多少
気持ちが軽くなると思う
これが
聞き手が受け入れた
ということではないのかな
傷ついたひとの
力になりたいなら
傷ついて 話しているひとを
「否定しない」
「良い 悪いなどの 評価をしない」
「自分の意見を言わない」
「アドバイスをしない」
という関わりかたが
大事になってくる といわれている
わたしが
できているかというと
できていないと思う
なぬ? (≡人≡;)スミマセン
これらすべて
聞き手が
うわべだけでなく
本心からできたとすれば
傷ついたひとは
気持ちを 受け止められた
わかってもらえたと
感じやすい
話しやすいな
もっと話そうかなと
思うようにもなるみたい
わたしは
全面受容を 次男で
経験しているので
(わたしには 厳しかったけれどね 汗)
受け入れるとはを
なんとなく 感覚で
わかってきたのだけれど
あまりに自然に
全面受容されていたので
最初は
不気味さを感じたり
警戒したり していた
実は受容
そんなに
難しいことではなくて
身近に見本がある
ワンちゃんねこちゃん
飼っているペットは
飼い主に 何があろうと
飼い主が たとえ悪であろうと
いつもと変わらず
側にいてくれる
もちろん 評価 否定 意見は
しない
だから飼い主は
無条件の愛に癒され
安心できる
なので
聞き手は ペットのような
イメージ
海や山 大自然のなかでも
心地よさを感じる
これもまた
ありのまま 自然に
受け入れられているからだと
思う
心の広さを
自然に例えているのは
そういうこと
なのかもしれないね
というわけで
傷ついたひとを
評価したり
励ましのつもりの否定
意見を言うのは
とても残酷なこと
ときに 傷ついたひとは
自分を守ろうとして
さまざまな行動をする
例えば
部屋に引きこもる
話さないようになる
などなど
それを
自分を守ろうとしているのだな
と理解しないで
叱咤激励して
自分を守れなくしてしまうのは
怖いこと
一時的に
良くなったようにみえて
本人ではなく
まわりが楽になっただけで
何も解決していない
ということもある
近道は 結果遠回りになる
受容する聞き手は
怒り 憎しみ 苦しみ
傷ついたひとの マイナスの感情を
そのまま 肯定して受け止める
そうすると
傷ついたひとは
マイナスの感情を 感じている自分
悩んでいる自分は
ダメな人間ではなく
それで いいんだ
今の自分のままで いいんだと
感じられる
自分は
自分のままでいいんだと
自己肯定感が 多少高くなる
(自分で自分を肯定して
自己解決しているときも
あるよね)
評価 否定
意見されないことで
ありのままの自分を
聞き手に 表現しやすくなる
というもの
逆に
聞き手が励ましのつもりで
否定する
よかれと思い 意見を言う
正しい もっともなことを
聞き手の自己満足でぶつける
不安をぶつける
しまいに 罰を与えたり
条件をつけたりする というのは
溺れている我が子が
つかもうとした藁を
知らないで 罰として
とりあげるようなもの
とはいえ
傷ついたひとを
目の前にしたとき
大切なひとなら なおさら
なんとかしてあげたいと思う
解決策があれば 伝えたい
あなたにも 責任があると
指摘したくもなる
不安なひとに
そうなるよね 不安だよね と
共感すると
もっと
不安になるのではないか
という
聞き手の不安もある
救いたいのは 誰なのかな
相手のなかにいる 不安な自分
なのか
傷ついている相手なのか
弱いひとと評価して
うえから目線になっていないか
依存していないかな
相手にかけたい言葉は
本当に これなのかな
ただの
自己満足ではないのかな
ということを
立ち止まり お茶でものんで
深呼吸して考えてみると
大切なものが みえてくるかも
わたしは
世界一はなしやすくて
あんな 優しいひとに
会ったことがないと
まわりから 言われているひと
との 出会いがあったので
素敵だな
あんなひとに なれたらいいなと
観察しているうちに
人生観が変わっていった
こんな発見を
ごちゃごちゃ書いている わたしは
完璧ではなく
まぁ いい加減で 無神経
未熟なひとで
学びと気づき 反省の毎日
次男のサポートをしていて
最初は
いい母親でいたい と
変に 力が入っていた
いつも明るく
いなければ いけない
何かしなければ
わたしに 何かプラスしなければ と
落ち着かなかった
わたしの
育った環境も
関係あると思うのだけれど
こうじゃなくてはいけないと
思ってきた
こうじゃなくても いいのにね
ところが ただ
わたしが 何もせず
座っているだけで
存在を
みなさんが認めてくれている
ということを
次男のサポート中 肌で感じて
ああ ただ
そこにいるだけで いいんだ
わたしは わたしでいいんだ
ということに 気づいた
ボランティア活動で
居場所づくり
命を守る活動をされている かたがた
信頼できるドクター
近所のひと
動画のなかのひと などなど
肩書き 年齢関係なく
素敵なかたから
学ぶチャンスは いくらでもあるので
危険なことは
許してはいけないけれど
優しい気持ちで
話を聞いていられたら
いい時間が過ごせて
傷ついたひとは
救われるのではないかな
だから わたしは
不器用ながら
それで いいんだよ
あなたは 今のままで 十分なんだよ
あなたは あなたのままで
十分 愛されているんだよ
という思いを
伝えていきたい
長くなりましたが
最後まで 読んでくださり
ありがとうございました**
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